「水戸の梅まつり」の歴史

水戸の梅まつり」は、早春の訪れを告げる水戸の春の風物詩です。
「水戸の観梅(かんばい)」とも称される梅まつり。
その歴史はゆうに100年を超えており、その始まりは明治時代半ばまで遡ると言われています。

途中、戦災による中断などを経ながらも着実に開催を重ね、今では国内外から30万人近くが訪れる、一大イベントとなりました。

ここでは、梅まつりの由来や歴史を簡単にご紹介します。

目次

「水戸の観梅」ことはじめ

弘道館と梅

弘道館公園に残る「種梅記」碑

偕楽園と弘道館を創設した徳川斉昭公の想い

梅まつりの原点ともいえる出来事は、今から200年ほど前の江戸時代末期に遡ります。

当時の水戸を治めていたのは、徳川御三家の一つに数えられる「水戸徳川家」。
第9代藩主徳川斉昭公は、歴代藩主の中でも、特に「梅」を愛していた方でした。

今でも弘道館の敷地に残る「種梅記」碑には、斉昭公の梅に対する想いが刻まれています。

曰く、
梅は、冬の厳しい寒さに耐え、春に先駆けて咲く植物である。
そして、咲き誇る花は数多くの詩歌の題材となり、また、その実は戦いのときの保存食となる上、薬効にも優れている。
このように、梅には見た目の美しさだけではなく実用的な役割があり、大いに奨励されるべきである――斉昭公はそのように考えていました。

しかし、天保4(1833)年に斉昭公が初めて水戸藩領を訪れた際、領内にはあまり梅が植えられていませんでした。
そのため、斉昭公は江戸で梅の実を集めて毎年水戸へと送り、偕楽園などに植えさせたと伝わります。

現在まで続く梅まつりの原点は、斉昭公の想いと行動にあるのかもしれません。

かつての「観梅」は風流人のものだった?

さて、そのようにして梅がたくさん植えられてきた水戸ですが、この頃の「観梅」はどのような姿だったのでしょうか。

今でこそ多くの観光客が訪れる偕楽園ですが、かつての「観梅」は、一部の風流人のものだったと言われています。
梅の花が開く時期になると、風流人が偕楽園内をゆっくり散策したり、好文亭であたりの風景を眺めながら歌を詠んだりして、梅を楽しんでいたと伝わります。

今のように多くの観光客が訪れている偕楽園からは、とても想像できない光景です。

正岡子規と水戸
著名な俳人・詩人である正岡子規も水戸を訪問しています。

明治22(1889)年4月に友人に会うために水戸を訪れた際に、弘道館や偕楽園などを巡っており、その様子を紀行文「水戸紀行」に残しています。
子規は、好文亭から眺めた偕楽園の風景にいたく感激したようで、紀行文の中で絶賛しています。

子規が詠んだ「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」という句を記した碑が、偕楽園の南崖に建てられています。

鉄道の開通と「観梅」

偕楽園下を走るJR常磐線

「鉄道で行ける観光地」として人気に

それまで風流人が梅を愛でるのが主であった「観梅」ですが、その流れを大きく変える出来事が発生します。

「鉄道の開通」です。

明治22(1889)年、水戸と栃木県の小山を結ぶ水戸鉄道(後の日本鉄道水戸線、現 JR水戸線)が開通します。
水戸鉄道を利用すれば、上野駅から水戸駅まで6時間程度。鉄道を利用して水戸に、そして観梅に訪れる観光客が大きく増加しました。
また、翌23(1890)年には、昭憲皇太后が行啓され、水戸の知名度が大きく向上したと言われています。

その後、水戸鉄道を買収した日本鉄道は、観梅を広めるために新聞社へ無償切符を贈ったり、往復割引切符を販売したりしました。
このように、東京から鉄道で気軽に訪ねられる観光地として「水戸の観梅」が一躍、有名になったのです。

「観梅列車」と偕楽園

その後も鉄道の延伸が進み、かねてより工事を進めていた友部・田端間の土浦線(後の海岸線、現 JR常磐線)が明治29(1896)年に開通します。
田端(上野)・水戸間が現在のJR常磐線経由で直接結ばれたことで、上野・水戸間の所要時間も2時間ほど短縮されました。

これにより、東京をはじめとする各地から、さらに訪れやすくなりました。

さて、この頃、水戸の旅館業者が中心となって日本鉄道と交渉を行い、上野駅から水戸駅までの臨時列車を走らせることに成功します。
これが、観梅期間の臨時列車、いわゆる「観梅列車」の始まりと言われています。

また、地元側も花火を打ち上げたり、偕楽園内に仮設舞台を設えて磯節踊りを披露したりと、観光客の歓迎に力を入れるようになります。

このように、水戸の観光の目玉として、「観梅」が大きな立ち位置を占めるようになったのです。

偕楽園駅の開設
常磐線の下り線には、梅まつり期間にのみ開設される珍しい臨時の駅があります。

この「偕楽園駅」は、もともとは明治43(1910)年の仮設ホーム設置に始まるとされており、それまで水戸駅での乗り換えが必要だった偕楽園への交通アクセスが大きく改善されました。

偕楽園駅は、大正14(1925)年には臨時駅に昇格し、現在に至るまで多くの観光客に利用されています。

戦争による偕楽園の荒廃と復興

戦時下の観梅と戦後の復興

水戸の一大イベントとしてその名を広めた水戸の観梅に、苦難の時期が訪れます。
昭和期に入ってからも、官民問わず様々な努力をもって誘客が広げられてきた観梅には、多くの観光客が訪れていました。

しかし、戦争に突入すると、その時局に鑑み、一時的に中断を余儀なくされます。
観梅のメイン会場であった偕楽園も、食糧増産のために広々とした芝生の広場は畑に変わり、梅林の一部も燃料にするために伐採されてしまいます。
昭和20(1945)年8月に水戸を襲った水戸空襲では、偕楽園のシンボルであった好文亭も焼失し、園内の梅はその多くが枯死してしまったと言われています。

戦後、荒廃した偕楽園も徐々に整備され、観梅も復活します。
昭和26(1951)年には、郷土芸能の披露や野点茶会、写真大会などが開催されたとの記録が残ります。
また、戦災で焼失し、約3年をかけて復元工事を進めていた好文亭も昭和33(1958)年に再建され、本格的に観光客を迎える準備が整うのです。

水戸の梅むすめ・水戸の梅大使の登場
長い間、観梅の主役を務めていたのは芸姑連(芸者)でした。
時の移り変わりにつれて、芸姑連に代わって登場したのが「水戸の梅むすめ」でした。昭和38(1963)年、一般公募により初めて10人の梅むすめが選ばれ、お出迎えや園内の案内などを行い好評を博します。
元々、梅むすめは芸姑に代わって活動する、観梅期間限定のいわばサービス係として、実験的に考えられたものでした。
そのため、当時は、現在のように、世間から注目されて華々しく登場したわけではありませんでした。梅むすめの人気も次第に定着してきましたが、平成13(2001)年に男性でも応募が可能になり、その名称も「水戸の梅大使」に変更され、現在に至ります。

梅まつりの現在

第5回夜・梅・祭

弘道館と梅

好文亭内にはカフェ「樂」がオープン

第100回を迎えて

時代ごとの変化に合わせてその姿を変えながら、平成8(1996)年、水戸の梅まつりは記念すべき第100回を迎えました。
100回記念のイベントとして、「あんこう鍋と水戸漫遊の旅」と銘打ったツアーやオリジナルテレフォンカードの販売のほか、海外旅行招待キャンペーンなどの特別企画が催されました。

平成18(2006)年には、梅まつり開催110回を記念し、「夜・梅・祭」が初めて開催されました。
また、平成25(2013)年には、偕楽園に隣接する常磐神社を会場に、「全国梅酒大会(現 全国梅酒まつりin水戸)」が開催され、多くの人出で賑わいます。夜・梅・祭と全国梅酒まつりは、現在でも梅まつりの目玉イベントとして好評を博しています。

令和元(2019)年には偕楽園が有料化されるなど、梅まつりを取り巻く環境は大きく変わってきましたが、水戸の一大イベントとして発展を続けています。

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